何度もえずいて涙まみれになり、過呼吸を起こして撮影が中断したときのこと【神野藍】連載「私をほどく」第5回
神野藍「 私 を ほ ど く 」 〜 AV女優「渡辺まお」回顧録 〜連載第5回
早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、神野藍がしずかにほどきはじめる。「どうか私から目をそらさないでいてほしい・・・」連載第5回。
【シャワー室の鏡には、散々な姿の女が映し出されていた】
開始してからどれくらい経っただろうか。真っ白な光が私の姿態を包み込んでいる。視界がぼんやりとしている、酸欠だろうか。あらゆる開閉口が締め切られた部屋の中はべっとりと身体に纏わりつくような生ぬるい空気が漂い、汗と唾液、あとはスタジオ特有のほこり臭さが混じって鼻孔を刺激する。その空間に存在する全てが今行われている行為の不快感を増長させていた。
「カット!」待ち望んでいた監督の声が響き渡る。
「ああこれで終わりだ、やっと帰れる」と失いかけた意識の中で安堵する。カメラの外側に待機していたスタッフたちが心配そうにウェットティッシュなどのケア用品やバスローブを抱えて近寄ってきた。
「ありがとうございます。でももう帰るだけなので大丈夫ですよ、シャワー浴びてきますね!」
屈託のない笑顔でそう伝え、身体に残るわずかな力を振り絞り、足早にカメラの前から立ち去った。
身体中のいたるところに精子やローションがべっとりとつき、顔面に押し付けられて溶けきったアイスクリームが髪の毛にまとわりついている。シャワー室の鏡には、そんな散々な姿の女が映し出されている。こんな風になるのならば、開始前のメイクさんの頑張りは全て無駄かのように思えてしまう。鏡の中には先ほどまでの明るい女優は存在していなかった。二人がかりで押さえつけられた手足は所々こすれて赤くなっていた。頭上のシャワーから熱いお湯をどんなに噴き出しても、心の中に停滞している淀んだ何かが綺麗に流れることはなかった。ただただ擦り切れた部分にお湯が沁みてきて、分かりやすい痛みの形となって突き刺さった。
参宮橋にあるスタジオから新宿御苑の自宅へ向かってタクシーを走らせる。住所を伝え、話しかけるなと言わんばかりに早々にイヤホンで耳をふさぐ。甲州街道に出て新宿駅の横を通り、御苑のトンネルの前で脇道に入る。24:00前。まだ町から人は消えていない時間帯だ。お酒を飲んでふらつき、車道に飛び出してくる人間が嫌なほどに目について、思わず舌打ちしてしまいそうになる。丸井の別館を通り過ぎると、街は急にしんと静かになる。でもそんな雰囲気が安心できたのだ。この、誰一人として自分に干渉してこない、この冷たく見放された感じ。
窓の外の風景を眺めているうちに自宅前に到着した。タクシーを降りて、オートロックを解除し、エレベーターに乗り込み11階のボタンを押す。玄関を開けて、仕事用のトートバックを乱雑に置き、そのままソファに倒れこんだ。そこでようやく今まで張りつめていた緊張の糸がプツンと切れ、そのまま意識を失うように眠りに落ちた。